SACの棚木と申します。
SACはShining eyes of Afghanistan Childrenの略称です。
その由来となる話をさせていただきます。
私は2003年の9月にアフガニスタンに渡航したことがあります。きっかけは2001年に起きた同時多発テロの記事を雑誌で見たことです。その雑誌には何もない砂漠に子供の後ろ姿がポツンとあるだけの写真が載っていました。
私はそれを見て漠然とアフガニスタンに行きたいと思ったのです。
その当時アフガニスタンに関する情報を得ることは難しく私が掴んだ唯一の情報は隣国イランからマシュハドを経由して国境を陸路で越えてアフガニスタンのヘラートを目指すという手段でした。
当時のイランの地球の歩き方にそう書いてありました。
私はエミレーツ航空でドバイを経由してイランの首都テヘランに入りそこから電車で第2の都市マシュハドに到着しました。マシュハドからバスでアフガニスタンとの国境に近いトルバテジャームまで行きそこから乗り合いタクシーで国境まで行きました。
現地のイラン人に道を尋ねながら行きましたがアフガニスタンに行きたいと言う度にやめたほうが良いと何度も止められたのを覚えています。
ビザは東京でイランビザをダブルでアフガニスタンビザをシングルで取得していました。イラン大使館の担当者に何故ダブルで取るのか?と聞かれて私はアフガニスタンに行くために一度出国してまた戻ってくるためと正直に答えたところやはり行かないほうが良いと言われていました。
国境に到着してイラン側のイミグレーションを終えて歩いて国境を通過しました。周りは砂漠で建物がポツンとあるだけでした。
アフガニスタン側のイミグレーションを終えるとある男が荷物を担がせてくれと言ってきました。その男に1万イランリアル(1ドル)くらいを払いました。
また違う男がやってきてアフガンルピーに両替しないかと言ってきました。アフガンルピーのレートを知らなかったのでとりあえず彼に10ドル渡しました。後でわかりましたがその10分の1も返ってこなかったのです。
上記のやり取りは英語が通じなかったので身振り手振りで感じ取っただけです。
そして歩いて行くと乗用車がポツンとあったのでとりあえずそこに向かいました。
運転手が出てきたのでヘラートに行きたいと言うと乗れとジェスチャーで返してきました。この彼にもhelloもhotelも通じませんでした。
彼が文字を読むことがでいないためペルシャ語の指差し会話帳も役に立ちません。
唯一通じた言葉はヘラートという地名とタリバン、ヴィンラディン、ジョージブッシュの4つの名前だけでした。
行けども行けども見渡す限り青い空と砂漠の大地だけで所々に土壁で作ったような小さい家がポツンポツンとあるだけでした。
白いヤギに荷物を運ばせている人がいたり戦車がひっくり返っていたり幹線道路は舗装されていないただの砂利道みたいな感じでした。
乗った車も今にも壊れそうなマニュアル式の古い車でした。1時間くらい走って途中の小さい集落で踏切の遮断機のようなものを降ろされ行く手を阻まれました。
銃を持った男たち10人から20人くらいが私の乗っている車を取り囲み何やら叫んでいました。金をよこせと言っているのか何なのか全くわかりませんでした。運転手が出て行き何やら彼らと話をしてまた戻ってきました。
多分金を渡したのだと思います。
しばらく経つと遮断機は上げられまた車が出発しました。それと同時に男たちの一人が威嚇射撃のようなものを空に向かって2発打ちました。
それからヘラートまでの2時間の道のりは生きた心地がしなかったのを覚えています。この時ほど死を覚悟したことはありません。
運転手と言葉が通じずコミュニケーションが取れないためただひたすら心が塞がれて行きました。
Welcome to Heartという看板を目にしたのでヘラートに着いたのだと思いました。建物がだんだん増えていき街中へ入っていきます。
すると異様な光景を目にしました。すれ違う車は〇〇建設だとか〇〇株式会社とか〇〇食品とかみんな日本語の書いてある車ばかりでした。
ほとんどが日本人が使っていた車でした。きっと何らかのルートで廃車になった日本車を輸入していたのだと思います。
日本人がいないこの街で日本語を知らないアフガン人がそれを使っているのに衝撃を受けました。英語も通じずアルファベットも自国の文字もわからない彼らにこれが日本のものだと伝えることさえできないことに衝撃を受けました。
車は市内に入っていきましたが依然として道路は舗装されていない砂利道でした。1階建ての土壁の建物ばかりだったような気がします。
そしてようやくアルファベットの文字の看板を見つけました。MOWAFAQ HOTELと書いてある4階建ての建物です。
運転手にここに止めてほしと言いました。払ったお金は確か40万イランリアルくらいだったと思います。
エマームホメイニーが描かれている1万リアル札を40枚くらい持って行かれました。だいたい40ドルくらいですが命が助かったので良しとしました。
ホテルの中に入ると自分と同年代くらいの若い青年がいました。雰囲気が非常に落ち着いていて誠実そうで澄んだ瞳をしていました。
実は彼がこのホテルで唯一英語が話せるスタッフでした。久方ぶりにまともにコミュニケーションが取れたので心が安堵しました。
彼の話によると、このホテルはヘラート市内で一番大きな国際ホテルであり、建物も一番高く大きい、そして目の前の交差点はヘラートの中心とも言える繁華街の交差する場所である、と言っていました。
十字に広い道が交差していて金曜モスクに通じる方の道がヘラート最大の繁華街で唯一その道だけが舗装されていました。
彼が言いました、3週間前に韓国人が1人来た、そして3ヶ月前に日本人が1人来た、あなたは3ヶ月ぶりの日本人客です。と言われました。
そしてヘラート市内に1人だけ日本人が住んでいるとも言っていました。
チェックインをして部屋に入ると3つのベッドがありました。ドミトリーではなく自分一人の部屋なのにトリプルの部屋でした。
エアコンはなくて天井にファンがありました。これで1泊20ドルです。外は40度近くで暑いのですが湿度が低いので建物内に入るととても涼しかったことを覚えています。
テレビがあったのでつけてみますがチャンネルは1チャンネルしかなくコーランの番組だったのでロビーに降りて人間観察をしていました。
客のほとんどがアラブ系の人でした。そして稀に白人がいたので声をかけるとイタリア人の夫婦でした。二人は国際バスでマシュハドから来たみたいでした。そして次の日はカブールへ行くと言っていました。自分の情報収集不足であのような危険な目に遭ってしまったのだと思いました。
スタッフに外の治安は大丈夫なのかと聞いてみると日中は安全だが暗くなる前に帰って来た方が良いと言われました。夕方近くになって外に出てみると向かいの建物は爆撃を受けた痕がそのまま残っている痛ましい状態でした。
足を一本無くした老人とブルカをかぶって顔を全く隠している女性たちを見ました。風が強くて砂埃が凄かったです。
繁華街をちょこちょこ歩いて行くと家電屋さんがあったので入って見ました。ブリトニースピアーズのDVDが売ってたのが印象に残っています。それを買ったかどうかまでは覚えていませんが・・・
驚いたのは普通に銃を売ってる店がありました。また驚いたのは店の前に止めてあった自転車に日本人の名前が書いてありました。すると隣の自転車もそのまた隣もみんな日本人の名前が書いてある自転車でした。
日本で捨てられた自転車がここに運ばれて来ているのだと思いました。
繁華街を歩いているとお菓子屋があったのでポテトチップスを買いました。驚いたのは5歳くらいの子供が店番をやっていました。
いくらなのか聞くと電卓を持って来て10と見せて来たので10アフガニ払いました。言葉は全く通じていなかったのですがそれで良かったみたいです。暗くなって来たのでホテルに戻りました。スタッフが2Fにレストランがあるのでそこで夕食をとってくださいと言って来ました。
その通り2Fに上がると白いアラブ系の衣装を着た人たちが大半を占めていました。
味のついたライスの上にレーズンがのっているものと肉料理とサラダみたいなものが出てきました。飲み物はコーラでした。夜の7時くらいになって外に外出してみました。
昼間の賑やかさが嘘のように店は全部閉まり街灯もなく真っ暗でした。
ヘラートで1番の繁華街でもゴーストタウンの様です。いくら田舎でもこんなに真っ暗な街は日本では見たことがなくこれもまた衝撃的でした。さすがに怖かったので小走りでホテルに戻りました。
この日は朝からマシュハドのホテルを出発し、国境についたのがお昼頃、ヘラートについたのが午後の3時頃、だったこともあり本当に1日が長く感じられました。
そして疲れたのでぐっすり寝たいといったところだったのですがヘラートで1番の国際ホテルということもあって武装勢力に襲撃されないか?という不安に駆られながら一夜を過ごしました。
次の日の朝、ホテルのレストランで朝食を済ませてから外に出てみると後ろからハローと子供の声が聞こえて来ました。中学生くらいの少年でした。まさか子供に英語で話しかけられるとは思わずこれまた衝撃的でした。大人ですら自分の国の文字も読めないのに何故子供が英語を話せるのか?と思いました。
彼に中国人かと聞かれたので日本人だと答えました。
すると何やら教科書のようなものを出して来て私に見せてきました。英語の教科書のようで過去形を勉強中だったみたいです。
彼は現在形しかわからないのでぎこちない会話になってしまいましたがコミュニケーションをとるには十分でした。
ただ現在形しかわからないのに自分の持っている知識をありったけ活用して外国人に話しかけてくる少年の熱意に心を打たれました。そして彼の目は輝いていました。日本人は高校を卒業するまでに過去分詞まで勉強しますがそれを活用して自ら外国人に話しかけようとする人はなかなかいないでしょう。
勉強して知識ばかりを詰め込んで頭でっかちになってもそれを使わないのであれば勉強してきた意味がありません。それを深く考えさせられました。日本の教育のあり方は変わらねばいけないと思いました。
アフガニスタンの子供たちは午前中に学校に行って勉強し、午後は働いているという子たちも少なくはありません。
日本人もこれを真似て、小さい頃からでも働きながら勉強し、本当にやりたいことが見つかったならそれに特化した勉強をしていく方が、教育が実践に活用されやすいのではないかと・・・今でも思っています。
少年は私を彼の通っている学校に連れて行きました。建物は古いですが日本でいう小学校みたいな感じでした。
それから彼の家に連れて行かれました。彼の家は私の宿泊しているホテルの隣の絨毯屋でした。
彼の父が店を切り盛りしているみたいですが父親は英語がわからないので少年に通訳してもらいました。
数ある絨毯の中で私の目にとまったのはアフガニスタンの地図に戦車や銃や爆弾が描かれているデザインの絨毯でした。2002USSRと文字が入っていました。旧ソ連のアフガン侵攻を描いて2002年に絨毯を作成したという意味なのかと私は解釈しました。絨毯に戦争を描くという発想に惹かれました。
また、この絨毯はアフガニスタンは戦争ばかりだということを訴えかけているようにも思えました。私はこの絨毯が欲しいと言い、20ドルと日本製のバカチョン式のカメラを父親に渡して半分物々交換で絨毯を手に入れました。
彼の父が店を切り盛りしているみたいですが父親は英語がわからないので少年に通訳してもらいました。数ある絨毯の中で私の目にとまったのはアフガニスタンの地図に戦車や銃や爆弾が描かれているデザインの絨毯でした。
2002USSRと文字が入っていました。旧ソ連のアフガン侵攻を描いて2002年に絨毯を作成したという意味なのかと私は解釈しました。絨毯に戦争を描くという発想に惹かれました。また、この絨毯はアフガニスタンは戦争ばかりだということを訴えかけているようにも思えました。
私はこの絨毯が欲しいと言い、20ドルと日本製のバカチョン式のカメラを父親に渡して半分物々交換で絨毯を手に入れました。
それからヘラートの名所である金曜モスクに行きました。靴を脱いで中に入ると子供達が自主的に何やら勉強しているようでした。彼らは私に気づいて近寄ってきて英語で話しかけてきました。
子供達
どこからきたのか?中国人か?
私
いや日本人だ、東京から来た、
子供達
あなたは何を信じているのか?イスラム教か?
私
私は無宗教だ
子供達
日本の女の人たちはブルカをかぶるのか?
私
いや、かぶっていない、
子供達がわら半紙のような紙を持っていたのでそれは何だと聞いたところ教科書だと答えました。
私
君たちは何のために勉強しているのか?
子供1
私は将来医者になりたいのでそのために勉強している?
私
なるほど、隣の君は将来は何になりたいのか?
子供2
エンジニアになりたい
私
何で?
子供2
国を復興するために、
私
素晴らしい、隣の君は将来何になりたいのか?
子供3
私も医者になりたい
私
どうして?
子供3
病院が少ないから
みんな10歳前後くらいの子供たちでしたが夢を語る時のみんなの瞳が輝いていました。日本人にはないような目の輝きでした。日本では見たことがありません。
とても希望に満ち溢れている輝きです。何もないからこそ自分たちがやらなければいけないという子供達の挑戦とも言える輝きです。
私はとても羨ましく思いました。そしてとても感動し、とても惹かれました。自分も将来この国で一緒に何かやりたい、人生をかけてみたいと思って現在に至ります。
Shining eyes of Afghanistan Children
アフガニスタンの子供たちの輝いている瞳
私は彼らの目の輝きを一生忘れないでしょう